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1: 名無しさん@おーぷん 2018/10/19(金)22:37:13 ID:eRp
1中 屋台文化の全国普及
2遊 洋食の普及
3一 養豚ブーム
4三 鉄筋コンクリートと文化住宅
5右 女性用下着などの洋装の普及
6二 自動車の普及
7左 喫茶店(カフェー)と純喫茶
8捕 ラジオの普及
9投 釜飯

2: 名無しさん@おーぷん 2018/10/19(金)22:37:30 ID:eRp

【関東大震災で普及したもので打線】
・屋台文化の全国普及
先日の「歴史秘話ヒストリア」で、ラーメンの歴史が紹介されていた。
その中で"ラーメンが普及したのは関東大震災後に被災者生活ガイドブックとして配られた「裸一貫生活法」"というものがあったが、
どうやらこの「裸一貫生活法」は関東大震災とは関係ないらしいく、都会に上京した人向けのガイドブックだったようだ。
実はその番組がこの打線を組むきっかけだったので残念だったのだが、とはいえ関東大震災によって屋台文化が全国に普及したというのは間違っていない。
たとえば「天麩羅」は関東大震災までは東京のローカルフードだったのだが、後述の理由で震災で職を失ったてんぷら職人が、各地へ江戸前の天ぷらを広めることとなったのである。
同様に「そば・うどん」、「おでん」などの屋台も全国に広がったという。
これらは19世紀ごろから江戸に存在した移動式屋台であり、元手があまりかからない事もあって被災者の地方での生活の糧となった。
普及したのはもちろん屋台に限ったことではなく、たとえば「寿司」などは固定店舗として普及した。
なぜ寿司が全国に普及したのかは、後述の「養豚ブーム」を参照されたし。

9: 名無しさん@おーぷん 2018/10/20(土)05:49:27 ID:YDk
>>2
応仁の乱で京から地方に文化人公家が避難して京文化が伝わったのと似てるな

17: 名無しさん@おーぷん 2018/10/20(土)07:01:13 ID:two
>>8

純粋に規制に引っかかってただけやで。
ほかのスレも書き溜め済み

>>9

陸軍パンフレットには「たたかひは創造の父」と書いてあったそうやが、震災でもおんなじやね。

3: 名無しさん@おーぷん 2018/10/19(金)22:37:42 ID:eRp

・洋食の普及
明治初年から、日本では四足動物の食肉ブームが巻き起こっていたが、これは上流階級に限った話であり、
原則的に地方や低所得者の口に入るものではなかった。
しかし日清・日露戦争ごろには、陸海軍での食事は洋風化が取り入れられており、徴兵された庶民が肉の味を知る機会が増えた。
そして関東大震災において、もうひとつの転換があった。
それは「既存の飲食店の大半が震災で焼け落ちた」ということである。
既存の飲食店は前述のとおり地方に散ったということもあり、外食需要に見合うだけの店舗が存在しなかったのである。
帝都の復興にあたり、「明日の活力」として物珍しい食事に需要がフォーカスされた。
さらにもうひとつきっかけとなりえるのは、当時世界中から送られた救援物資だったのであろう。
1923年当時、世界の独立国57カ国の殆どの国が大日本帝国を支援し、励まし、そして物資を送ってくれたのである。

日本では見たことのないような肉、魚の缶詰を食した被災者は、「世界にはこんなに旨いものがあったのか」と驚いたことだろう。
事実、震災以降にコンビーフの輸入は爆発的に増えたという。
これは第一次世界大戦戦時下で「缶詰」が普及し、過剰供給であったことも無関係ではないだろう。
なお、当時最も日本を支援してくれた国は、米国である。
1923年にあった、もうひとつの「トモダチ作戦」を、我々日本人は未来永劫忘れてはならない。

4: 名無しさん@おーぷん 2018/10/20(土)05:37:37 ID:two
・養豚ブーム
関東大震災は、帝都に多くの犠牲と被害をもたらし、下水処理施設が大きく破損されたことによって衛生状態が悪化した。
当時、衛生状態の悪化によって発生する最大の病気は「コレラ」であった。
これを危惧した政府は、帝都民に生魚を食べることを制限した。
また、日本橋の魚市場が壊滅し、不衛生な魚介類が帝都に出回るのを防ぐ目的もあっただろう。
食物を十分に煮沸していれば防げるのだが、加熱調理を行わない生魚を食する「寿司」は規制の対象となってしまったのである。
これによって、寿司職人は帝都の復興後に寿司店を経営する見込みが立たず、次々と地方に散っていったのである。
魚介類をメインで提供する「てんぷら」や「おでん」も事情は同じであっただろう。
この魚介類の規制によって、帝都民は代替となる何かしらの動物性たんぱく質を求めたのである。
高温の油によって十分な加熱がなされる「トンカツ」はまさにその需要に添っており、このタイミングで養豚業は日本中に広がったのである。
なお、カツ丼は震災以前にすでに普及しており、「大正三大洋食」のひとつとして、「カレー」や「コロッケ」と同時に普及しつつあったため、違和感は少なかっただろう。

ちなみにこの時期に蕎麦屋が洋食屋に圧され気味であったため、起死回生のメニューとして「カツ丼」や「カレー丼」を出す店が増えた。
現在でも蕎麦屋でこれらのメニューを出す店が多いのはそういう理由である。

5: 名無しさん@おーぷん 2018/10/20(土)05:37:53 ID:two
・鉄筋コンクリートと文化住宅
震災においてもっとも犠牲者が多いのは火災であるとされている。
しかし関東大震災においては、家屋の倒壊による死者数はけして無視できるものではない。
震源近くの地域では約7割の家屋が倒壊したという。
純日本家屋は、震災や火災に対して殆ど無防備といっていいのだ。
復興時、焼け野原となった帝都において、普及したのが「鉄筋コンクリート製の文化住宅」である。
文化住宅とは、洋風文化を取り入れたアパートのことであり、和洋折衷の最先端のライフスタイルとされた。
また木造建築に比べて鉄筋コンクリートの邸宅は9割近くが無被害または小被害であったことから、復興時に安全面を重視した鉄筋コンクリートが普及した。
大正末期から昭和初期の華やかな和洋折衷文化は、日本の伝統と文明が入り混じった不思議な魅力があり、今も現代人の心を掴む。

なお、関東ローカルの風習であった「引っ越しそば」はこのタイミングで全国に普及したという。
引越しの話題のついでとなるが、「敷金・礼金」の「礼金」も震災後にできたものである。
震災後に住宅不足状態に陥った関東で、大家に渡す袖の下として生まれたという説が有力だという。

6: 名無しさん@おーぷん 2018/10/20(土)05:38:08 ID:two
・女性用下着などの洋装の普及
関東大震災で逃げ遅れた犠牲者は、和装の女性が多かったという。
1923年当時、男性の洋装化に比べて、女性の洋装はそれほど普及していなかった。
制服女学生や、一部の先進的なモガ(モダンガール)と呼ばれる女性を除いて、殆どの女性は着物で過ごしていた。
しかし女性の着物は緊急時の移動力をまったく考慮しておらず、特に緊急寺に求められる「膝を曲げるジャンプ」などの動作にはまったく向いていなかった。
この反省から、簡易な貫頭衣が男女ともに流行した。
これらの服は既製品ではなく自前で作ることが一般的であった。
先述した通り、各国からの支援物資には洋服なども含まれており、焼け出されて着の身着のままの被災者が洋服に触れるようになったのもきっかけであっただろう。

なお、「白木屋火災では下着をはいていない着物女性が救護ネットにジャンプできずに焼死した」という都市伝説があるが、これは悪質なフェイクニュースである。
この逸話は、「助かった女性が全員下着を履いており、助からなかった女性が全員下着を履いていない」場合にのみ成立する話なのであるが、実際には下着を履いていなかった女性も多く助かっている。
そもそも下着の普及率から考えると、「助からなかった女性」側にたまたま下着をはいている人が少なかったというだけであろう。
実際の証言によると、ロープを伝って降りる途中に力尽きて落ちたり、風にあおられて落ちたのが真相らしい。
人間は命のかかった状態で、羞恥心を気にする余裕などないであろう。
ちなみに同様の都市伝説にはフランスのパリにもある。

着物は月経時や排泄時に非常に不便であるため、女性は下着を着けないことが一般的であった。
政府の半官半民の団体である生活改善同盟会が「外出には、ズロースを」と呼びかけたのがきっかけで、女性用下着が普及したのだが、
これはまさしく「フェイクニュースからでた真実(まこと)」といったところであろうか。

10: 名無しさん@おーぷん 2018/10/20(土)06:51:23 ID:two
・自動車の普及
本田宗一郎の自伝によると、大正時代中期の帝都には、自動車修理工場がやっていける程度には自動車が普及していた事が分かる。
そして同じくその自伝によると、本田と自動車が大活躍したのはこの関東大震災の時だという。
食料品屋から焼け残りの缶詰を集めて飢えをしのぎ、廃棄されていたバイクを拾って修理して焼け野原を駆け回ったという。
簡易的な運搬業やタクシー業もこなしていたようで、修理依頼も大量に舞い込んだのであろう。

関東大震災はその当時の最大の輸送機関である鉄道や市電を一挙に破壊してしまった。
鉄道はヨーロッパで生まれたため、大震災をまったく想定していないつくりであったのである。
このため、貨物の集配と震災の後始末から復興にいたるまで全てトラックに頼るしかなかったからである。
これら震災時の自動車のありがたみを最も切実に感じた帝都民の間で、自動車が爆発的に普及した。
日本では自動車は1923年に12,765台しかなかったが、1924年には24,333台に、そして1926年には40,000台を超えた。
戦後日本が自動車大国としてのし上がったきっかけが、この関東大震災にあるのかもしれない。

11: 名無しさん@おーぷん 2018/10/20(土)06:51:41 ID:two
・喫茶店(カフェー)と純喫茶
喫茶という文化がある。
ヨーロッパにおいて高級品であった「茶」を楽しむ場所として生まれたものであるが、
これは茶を楽しむという以上に、高級サロンとして上流階級者が集まる場として機能していた。
不特定多数の同一階級者が集まってそれぞれ話をするという形式は、日本ではなかなか機能せず、
あくまで洒落た飲食店といった趣である。
日本ではすでに独自の喫茶文化があるが、これは不特定多数との交流というものではなく、
ある程度フォーマルな仲間同士の絆の確認という意味合いが強く、外界から閉鎖されていることが条件となるのである。

さて関東大震災後、喫茶店(カフェー)と呼ばれる店舗が急速に増えた。
これは先述のように純粋に茶を楽しむというような店ではない。
ぶっちゃると、接客女性がつくキャバクラのような風俗店である。
これは被災者の女性が元手無しで簡単に現金収入を得るための手っ取り早い手段だったのであろう。
現在の「出会い系喫茶」に通じるものがある。
なお、純喫茶という言葉はこのときに登場した。
「喫茶店(カフェー)のような風俗店ではなく、純粋にコーヒーを楽しめる店」という意味合いなのだという。


ちなみに喫茶店文化といえば名古屋のモーニングであるが、意外なことに発祥はお隣の岐阜であるらしい。
朝早くから稼動し、かつ工場内が轟音で満たされる製紙業などの工場関係者が、静かに打ち合わせできる喫茶店に集まったのが始まりだという。

12: 名無しさん@おーぷん 2018/10/20(土)06:51:57 ID:two
・ラジオ
震災においてもっとも重要なのは、正確な情報を得ることである。
たとえば関連する火災の情報であり、津波の情報であり、家族の安否の情報である。
そしてこれは現代日本ではなかなか理解し難いところであるのだが、現地の治安情報というのも非常に重要である。
これはどんな震災であってもあり得ることである。
警察や軍隊は火事場泥棒や強盗や**などの犯罪を取り締まっている場合ではないからである。
そういった治安悪化に警察では太刀打ちできない場合、現地で自警団が組織されることがある。
緊急時とはいえ、これは非常に危険なことである。
冤罪や誤認を生み、ひいては集団ヒステリーに巻き込まれて、彼らが暴徒と化してしまう可能性すらあるからだ。
関東大震災では「朝鮮人が井戸に毒を流した」などのデマが発生したという。
ここでは朝鮮人虐殺や、朝鮮人による犯罪行為については触れないが、
何が真実なのかは各位で確かめられたい。

ここでの問題は、「震災時においては正確な情報が必要」ということである。

現在でもラジオは災害情報を最優先で放送することになっている。
電池で動き、課金もなく消費電力の少ないラジオは、災害情報源としては最適なのである。
日ごろの震災の備えのためにも、スマホに「radiko」を入れておくのをお勧めする。

13: 名無しさん@おーぷん 2018/10/20(土)06:56:26 ID:r70
はえー

15: 名無しさん@おーぷん 2018/10/20(土)06:57:28 ID:two
・釜飯
いかにも昔からありそうな「釜飯」であるが、以外にも発祥は新しく、関東大震災がきっかけであるらしい。
もちろん日本には昔から「釜」自体はあるし、「炊き込みご飯」だって当然存在するのだが、
この釜飯は「一人前ずつ小型の釜に入れてふたを閉めて提供される」という点が革命的だったのである。
一人前ずつの熱々料理にふたを載せるという店で、「丼」と似たような料理である。
しかし「丼」がなるべく白飯を汚さないようにという発想であるのに比べて、
「釜飯」はすべてを渾然一体に混ぜ込んで調理するという点で違いがある。
震災後、ボランティアなどによって行われる「炊き出し」にヒントを得た料理なのだという。
一説には「火災で焼けた釜を見て着想した」とも言われるが、いずれにせよ震災前には存在しなかった料理である。
通常の炊き込みご飯よりもライブ感にあふれる料理であり、高級感やご馳走感の強い料理である。
具材によって地方色を出せる料理であるため、駅弁などでも好まれる。

引用元: http://hayabusa.open2ch.net/test/read.cgi/livejupiter/1539956233/